大正十一年の創立に係る。創立当初は尋常高等小学校内に在りしが、昭和二年郭町の現地に新築して移転す。校地は元ニノ廓跡にして、土地高台、眺望よろしく、町制時代に川越公園たりし所なり。始め佐久間得三氏校長事務取扱に任をられしが、現今は内藤益治郎氏校長たり。
市内南久保町に在り。大正二年の創立にして始め川越尋常高等小学校内に学事奨励会よりの補助のもとに開館せられたり。本館の創設者は安部立郎氏発起のもとに各委員及同志の人々の後援により、現在の所に独立経営し、大正四年五月一日開館せり。館の建造物は故鹿戸彦四郎氏の寄贈する所たり。又蔵書も一般の有志より寄贈せらる。殊に創立当時、小学校及学生同志会等の努力により、蒐集せられたる書籍多数ありて、町制時代当時の蔵書数は、和漢書一万八千六百五十五冊、外に寄託本及各文庫本等あり、新井政毅翁旧所蔵の新井文庫本を綾部利右衛門氏より綾部文庫本として寄贈せらる、珍本古籍あり。又山田文庫、岩崎文庫、佐々木文庫、竹沢文庫、安部文庫、大川桜塘文庫本等、或は寄贈し或は寄託す。大正七年六月十五日に町立となり、今日に至る。而して本館もこゝに十有余年、其の年々の蔵書の増加に伴ひ、自然狭隘を告げたれば、茲に昭和三年御大典記念事業として、本館の新築案成立して、沼田文次郎氏本館敷地を寄贈せられしが、更に其の隣接地を購入して、本館を新築することに市会は決議せり。本年度中には、新館落成を告ぐるならん。
殊に川越図書館にて故安部司書を中心に同志の人々の努力により蒐集せる郷土資料及川越附近より出土せる石器土器類は、我が埼玉の郷土史料として、実に学界に珍重せられ、これが研究の為に各方面より来館するもの多し。館長は菅野政五郎、岩沢新平両氏を経て現今は市視学辻尚邨氏館長事務取扱たり。
明治初期の頃は中等教育は小学校教育に比して、稍々不振の状にあり。併しこれは我が川越のみに非ずして、県下の他町村も皆概ね同様に不振なりしなり。現今の県立川越中学校の前身とも云ふべきは、明治十四年旧城正殿の一部を校舎に充用し、入間高麗郡立中学校として設立せるものなり。是れ明治時代に於ける当町中等教育機開の創始なり。明治十九年之を廃止するのやむなきに至り、当町有志者により私立共和学校を設立し、中等教育の欠を補ひしが、同三十二年廃止となり。更に同年県立中学校の設置を見るに至りたり。本校は当初埼玉県立第三中学校と称せしが、後に埼玉県立川越中学校と改称せり。
校地は九千百八十一坪余ありて、校地(郭町)は旧川越城の中央、八幡曲輪等の跡にして、現校舎の一部は大正元年十一月、川越地方に於ける陸軍特別大演習挙行の際畏くも大正天皇の所在所として、大本営に充てられたりしは、洵に光栄の至りといふべし。
本県にありては、中学校の稍々完成すると共に、実業学校の設置を奨励したりしが、由来我が川越地方は織物の産地なりしより、茲に明治四十一年四月川越通町に、県立川越染織学校を設置せり。後埼玉県立工業学校と改称す。「本校は工業学校規程に依り染織及図案の業に従事する者に須要の智識技能を授け、併て徳性を涵養するを以て目的とす」と此の校の主眼なり。校地七千三百六十四坪余あり。
川越を中心として、入間郡地方は、本県にても最も養蠶の盛んなる所にして、繭の歳出高は頗る多額なり。是に於て本県は蠶業学校を必要なりとし、大正九年之を川越小仙波に設立して、蠶業に従事する者に須要なる智識技要を教授する機関となせり。
町制時代には、町立一校、私立一校あり。其の外女子教育の星野塾等ありしが、明治四十四年四月、六軒町に県立川越高等女学校の設立を見たり。校地九千百七十五坪にして、校内に寄宿舎の設あり。
以上各学校の記述は主として町制時代よりの各公立の分のみにつきて其の概要を列記したり。今又更に私立学校に就いて述ぶれば、川越盲唖学校あり、始め川越の寺院、宗教家有志等の和協と援助に依り、川越訓盲学校と称して、南町養壽院の南隣地に設立して盲者の教育につとめ、校長は石井愚鑑師たりき。現今は大に組織を改善し、文部省及本県、川越市等の補助費を受けて、埼玉盲唖学校と改称し、神明町に校舎を新築して盲唖者を教育す。現校長は笠松仙英師なり。
昭和元年に川越市医師有志によりて創立せられ、校舎の位置は小仙波にして、校長橋本定五郎氏なり。学校内に産室を設け無料にて妊婦を収容し以て社会奉仕につくす。市費の補助あり。
尚私立山村高等裁縫女学校の外、私塾を経営するものあり。