明治十九年学制の改正によりて同年三月三十一日限り川越、三芳野、縁、志義の四学校を廃し、翌四月一日に川越町連合町立普育学校を設置し、川越学校(本町)を第一舎、三芳野学校(郭町)を第二舎、縁学校(鉦打町)を第三舎、志義学校(志義町)を第四舎となせり。
同二十年三月二十五日、川越町、芳野村、山田村、田面沢村、太田村、日東村、仙波村、高階村の一町七ヶ村組合高等小学校設置の認可あり。(同二十五年九月三十日日東村は分離して川越町外六ヶ村組合立となれり)翌四月一日より郭町なる第二舎をこれに宛てゝ開校したりしより、第四舎を改めて第二舎と称せら。同廿三年三月には普育学校を改めて、尋常小学川越学校と称し、其の第一、二、三舎の名義は従前に同じ、更に同二十五年六月更に川越尋常小学校と改称し、第一舎を本校とし、第二舎を其の第一分校、第三舎を其の第二分校となしたり。
同廿八年十月三日には、従来の川越町外六ヶ村組合を廃止し、単に川越町立として設置の件認可されたりしも、各村よりの就学児童は旧来の通り収容せり。尋常小学校の敷地校舎共に狭隘にして不便甚からざりしより、同三十五年五月校地を新たに設定して建築の認可を得て、南北二尋常小学校を設置する事となり、従来の本校を川越北尋常小学校と称し、第一及第二分校を合して川越南尋常小学校と称したり。
愈々日露戦争の記念として同三十七年七月に両校の新築に着手せしが、翌二十八年五月十二日を以て両校同時に竣工式を挙行したり。当時小学校の校舎としては、県下有数の建築なりし、現校介は即ち是なり。
同四十年六月文部省令第一号を以て、義務教育年限の改正ありしより、翌四十一年六月三十日を以て川越高等小学校を廃し、翌七月一日より川越尋常高等小学校を設置したり。
又仙波地方にありては明治五年学制の頒布せらるゝや、小仙波南ノ院を充用して仙波学校と称せり。同十三年に通学の不便を憂ひて、大仙波新田村民の請願に依り、同年七月分離して菅原学校を設置したり。同十九年八月菅原学校を廃止して五教学校を置けり。此の時明治十一年新宿大日堂を充用して設立したる新宿学校も同じく廃止して、五教学校に併合せられたり。同二十七年仙波尋常小学校と改称して、本校は大仙波新田妙善寺を充用し、分教場は大仙波天然寺に仮設したりしが、同三十年八月之を廃して本校舎に併合せり。同三十四年三月現在の地即ち大仙波字富士の腰に新校舎を建築して移転せり。
同年七月高等科を併置して仙波尋常高等小学校と改称せり。爾後多少の変遷ありしが、大正十一年川越町と合併して市制を施行し、同十二年三月三十一日廃校、翌四月一日川越市立仙波尋常高等小学校と改称、大正十五月三月高等科を廃止し、仙波尋常小学校と改称、昭和二年四月より川越第三尋常小学校と改称せり。市制施行当時の校長は西川寅尾氏にして、現時は橋本惣右衛門なり。
昭和二年四月北校は川越第一尋常小学校と改称し、当時の校長は宮原吉之助氏なりしが、現校長は細田勝太郎氏なり。同年南校も川越第二尋常小学校と改称せり。校長は宮沢泰蔵氏なりき。
川越尋常高等小学校内には明治三十九年川越町立川越高等女学校設立せられ、校舎の一都を充用せしも、同四十四年県立川越高等女学校の設立を見るに及び、全部生徒を此の校に遷して廃校したり。又大正三年四月には町立川越実業補習学校を設置し、男子には商業科、女子には家事科裁縫科を課することゝし、又校舎の一部を使用したり。大正十一年十二月市制施行せらるゝや、同十二年四月一日川越商工実 修学校と改称せり。
ついで同十五年四月校舎の一部に川越実科高等女学校を設立したりしが、昭和七年三月之を廃止せり。川越青年訓練所は大正十二年四月より同校内に設立せられ、川越託児所も大正十一年十二月に同校内に設立したり。菅野政五郎氏は校長として在職四十年、校内設置の各校所の管理に当りしが、後丸山正美氏之に代り現時は馬場駿一氏なり。