明治五年学制頒布後夫々小学校設立の準備にかゝり、翌六年左の四校を開設せり。但し開校の月日不詳なり。
一、北学校 志多町広済寺内禅堂を仮用し、喜多、高沢両町の児童を収容したり。
二、三芳野学校 郭町(現尋常高等小学校)旧藩家老岡田竹右衛門氏屋敷を仮用し、全町に亘る士族の子弟を収容したり。
三、鍛冶学校 同町法善寺内に設置して鍛冶、南両町の子弟を収容したり。
四、相生学校 同町栄林寺内に設け、相生、志義両町子弟を収容せしが、翌七年志義学校の設立を見るに及び之を廃して同校に併合したり。
同七年には更に左の二校の設立あり。
一、志義学校 同町烏山稲荷神社境内に設立し、志義、相生、六軒、三町の子弟を収容したり。
二、初雁学校 南久保町(現図書館向側梅林)に設立し、松郷杉下等の子弟を収容したり。
ついて明治十四年十一月三日には、初雁学校は松郷鉦打町(現小杉眼科医邸)に新築されたる校舎に移転して、校名を縁学校と改め、松郷、杉下、連雀、六軒、境諸町の児童を収容せり。
又同年(月日未詳)川越小学校を本町(旧大手門跡)に新築するに及んで、北、鍛冶両学校之に合併せり。